電柱広告物語

電柱広告のルーツ

Roots

山梨県都留市鹿留(ししどめ)にある

電柱広告の礎を築いた大先達の方々の碑です。

文久2年2月21日

鹿留に生まれる。

明治18年

青雲の志を抱き上京。

和佛法律学校に入学。

明治21年

卒業後実業界に入る。

明治44年

東京電燈会社の常務取締役に就任。

ついで社長となり電気事業振興のために活躍。

十数社に及ぶ取締役社長相談役を歴任。

大正15年

日本産業文化博覧会で協賛会長の要職に推挙。

多年の功績により従五位に叙せられ勲六等を賜る。

大正15年8月

母千代子刀自の米壽に際し郷土の剛健なる山川と純朴なる郷党諸君の温情に対し聊かなりとも報いたいとの趣意により東桂小学校に講堂を新築寄贈自ら郷里に対する敬虔なる心を表すべく愛郷学堂と命名。

大正15年11月

六十五歳で歿した翁は愛郷の念一入深く明治から大正を通じ数多の在郷者を招き東電に勤務の場を与え郷土のため各種施設や団体に物心両面にわたり援助された。

神戸挙一翁頌徳碑

(裏面に表記されている刻文)

神戸挙一翁頌徳碑

(裏面に表記されている刻文)

愛郷学堂は翁の意志を継ぎ青少年の心身鍛練の場として質実剛健の気風と愛郷報恩の精神育成に寄与すること多大である。

又実業家として多忙の中に書を修め鹿峯と号し優れた書を残された翁は、人格高潔にして情誼深くひたすら郷土の繁栄と発展に貢献された功績は、永遠に私共の銘記すべきものである。

翁はわれらの先人であり亀鑑とすべき大恩人である。

ここに有志相図り明治百年を記念しとこしなえにその遺徳を讃えんとこの縁深き地に碑を建て辞を刻む。

昭和45年7月建之

神戸挙一翁頌徳碑建設委員会

神戸挙一年譜
文久2年2月21日

鹿留に生まれる。

明治18年

青雲の志を抱き上京。

和佛法律学校に入学。

明治21年

卒業後実業界に入る。

明治44年

東京電燈会社の常務取締役に就任。

ついで社長となり電気事業振興のために活躍。

十数社に及ぶ取締役社長相談役を歴任。

大正15年

日本産業文化博覧会で協賛会長の要職に推挙。

多年の功績により従五位に叙せられ勲六等を賜る。

大正15年8月

母千代子刀自の米壽に際し郷土の剛健なる山川と純朴なる郷党諸君の温情に対し聊かなりとも報いたいとの趣意により東桂小学校に講堂を新築寄贈自ら郷里に対する敬虔なる心を表すべく愛郷学堂と命名。

大正15年11月

六十五歳で歿した翁は愛郷の念一入深く明治から大正を通じ数多の在郷者を招き東電に勤務の場を与え郷土のため各種施設や団体に物心両面にわたり援助された。

愛郷学堂は翁の意志を継ぎ青少年の心身鍛練の場として質実剛健の気風と愛郷報恩の精神育成に寄与すること多大である。

又実業家として多忙の中に書を修め鹿峯と号し優れた書を残された翁は、人格高潔にして情誼深くひたすら郷土の繁栄と発展に貢献された功績は、永遠に私共の銘記すべきものである。

翁はわれらの先人であり亀鑑とすべき大恩人である。

ここに有志相図り明治百年を記念しとこしなえにその遺徳を讃えんとこの縁深き地に碑を建て辞を刻む。

昭和45年7月建之

神戸挙一翁頌徳碑建設委員会

就中中央線電化の建議を掲げ議会通過に努力し、その実現をみる等議案審議の重責を果たした。

この間翁は、郷土の繁栄と発展を期して谷村町水道電気事業の推進、鍛冶、谷坂隧道開通、谷村高等女学校の設置、東桂小学校建設、児童奨学資金の設置等公共施設の整備拡充と住民の福祉増進のために尽力された。

翁は、資性剛毅にして清廉謹直且つ情誼に厚く豊かな政治的識見と経験をもって、本県政界の重鎮として指導的役割を演じた。

この功により、勲三等瑞宝章の栄誉を贈られた。又翁は、多忙な中に寸暇を惜しんで書にはげみ天頼を号して豪放闊達な書画を残された。

数多の人々に慈父として敬慕されつつ昭和4年4月17日56歳の生涯を終わった。

高潔英邁な翁の徳を、仰ぎわれらの大先達であるこの偉大なる大恩人の功績をとこしえに顕彰せんと、ここに有志相図り明治百年を記念しこの縁深き地に碑を建て辞を刻む。

昭和45年7月建之

三枝彦太郎翁頌徳碑建設委員会

三枝彦太郎翁頌徳碑

(裏面に表記されている刻文)

就中中央線電化の建議を掲げ議会通過に努力し、その実現をみる等議案審議の重責を果たした。

この間翁は、郷土の繁栄と発展を期して谷村町水道電気事業の推進、鍛冶、谷坂隧道開通、谷村高等女学校の設置、東桂小学校建設、児童奨学資金の設置等公共施設の整備拡充と住民の福祉増進のために尽力された。

翁は、資性剛毅にして清廉謹直且つ情誼に厚く豊かな政治的識見と経験をもって、本県政界の重鎮として指導的役割を演じた。

この功により、勲三等瑞宝章の栄誉を贈られた。又翁は、多忙な中に寸暇を惜しんで書にはげみ天頼を号して豪放闊達な書画を残された。

数多の人々に慈父として敬慕されつつ昭和4年4月17日56歳の生涯を終わった。

高潔英邁な翁の徳を、仰ぎわれらの大先達であるこの偉大なる大恩人の功績をとこしえに顕彰せんと、ここに有志相図り明治百年を記念しこの縁深き地に碑を建て辞を刻む。

昭和45年7月建之

三枝彦太郎翁頌徳碑建設委員会

三枝彦太郎年譜
明治6年10月24日

鹿留に生まれる。

学を志し十三歳にして上京し遊学する。

明治26年

近衛師団に入隊。

日清日露の戦役に従軍。

功により勲六等単光旭日章を授与される。

明治35年

電灯広告社を設立。

社長となり今日の隆盛を見る社の礎を築き後中央電力会社等の重役を歴任。

大正9年

衆望を担い衆議院議員に当選、代議士として国政壇上で縦横に活躍。

明治6年10月24日

鹿留に生まれる。

学を志し十三歳にして上京し遊学する。

明治26年

近衛師団に入隊。

日清日露の戦役に従軍。

功により勲六等単光旭日章を授与される。

明治35年

電灯広告社を設立。

社長となり今日の隆盛を見る社の礎を築き後中央電力会社等の重役を歴任。

大正9年

衆望を担い衆議院議員に当選、代議士として国政壇上で縦横に活躍。

三枝彦太郎翁頌徳碑

(裏面に表記されている刻文)