
昨年横浜DeNAベイスターズが日本一になったことは記憶に新しいところです。その前の優勝が1998年でしたから、26年ぶりということでした。
現在、関内のベイスターズ通り振興会では通りの名前の生みの親であります鶴岡博氏のHPを作成中であります。そのために1994年に出版された「横浜スタジアム物語」(山下誠通著、神奈川新聞社)なる本をチラ見して鶴岡さんについてまとめることにしました。きちんとした鶴岡さんの偉業はHPをご覧いただきたいと思います(完成したら報告しますね)。
鶴岡さんは横浜スタジアムの生みの親でした。いろいろな顔があるのですが、私が所属していた横浜青年会議所の歴代理事長の一人でもあり、ベイスターズ通り初代理事長でもあり、実業家として運送会社を経営、横浜のジャズ文化の発展にも貢献しました。
1970年代後半に、当時川崎球場を本拠地としていたプロ野球球団「大洋ホエールズ」(現在の横浜DeNAベイスターズ)の横浜への移転について話が持ち上がり、同時に横浜スタジアム建設の話も持ち上がりました。その時東京資本である西武鉄道が建設資金を拠出するという話に反発し、横浜市民のスタジアムを作ろうと、横浜スタジアム建設に向けた資本金20億円を2週間で調達したのでした。
その後鶴岡さんは、2000年から14年間(株)横浜スタジアムの社長を務めました。
また、中区でジャズライブレストラン「BAR BAR BAR」を経営。横浜ジャズ協会の立ち上げや、「横濱ジャズプロムナード」の企画など、横浜の文化発展に貢献しました。
ベイスターズ通りは、かつて「関内仲通り」という名称だったそうですが、1998年の横浜DeNAベイスターズ日本一を機に、鶴岡さんが「関内仲通りでは、どこにあるか分かりづらい」と改称を提案し、1999年4月2日の開幕戦に合わせて名前を変えたのでした。ベイスターズ通り生みの親でもあります。
以下、横浜スタジアム建設に向けての航跡を「横浜スタジアム物語」から抜粋させていただきました。
昭和44年 | 神奈川県内アマチュア野球団体の総意として、横浜市と横浜市議会へ「平和球場再建の陳情書」を提出。 大洋ホエールズと横浜市が、新球場が完成した場合は、フランチャイズ移転との覚書を交わす。 |
昭和47年 | 署名運動開始、186,870人の署名を集め、横浜市に陳情書提出。 しかしながら、土地を所有している大蔵省、神奈川県警、財政的(20億円の建設費)に一部横浜市から反対があり、四面楚歌状態。 |
昭和50年 | 西武へ中央政界と資金援助を依頼。足りない資本は西武が出すことで了承を得る。 横浜市は昭和53年4月開幕に向けてプランづくりに入る。 500円券5000株250万円を横浜スタジアムの内野指定席1席を45年間貸与し、800席を売り、資本金20億円を集める案がまとまる。 |
昭和51年 10月半ば | 横浜青年会議所(理事長鶴岡博)にお金集めの依頼。 |
昭和51年 10月30日 | 横浜市議会に平和球場改造計画を説明。 |
昭和51年 11月11日 | 設立発起人会初会合。 |
昭和51年 11月16日 | 横浜青年会議所理事会 |
昭和51年 11月26日 | 「横浜スタジアム建設推進協議会」発足。 |
昭和51年 12月15日 | 資本金集めスタート。 |
昭和51年 12月28日 | 800口完売。 |
昭和52年 2月26日 | 「株式会社横浜スタジアム」創立総会。 |
昭和52年 3月31日 | 大蔵省建設許可。 |
昭和52年 4月1日 | 横浜スタジアム建設スタート。 |
昭和53年 3月31日 | 横浜スタジアム完工。 (よく1年であのスタジアムが建ったなと思います) |
2017年12月16日に死去。享年78。2018年3月17日には、約900人が参列して横浜スタジアムで「鶴さんを送る会」が執り行われました。
合掌