旭広告社創業について

旭広告社創業について
asahi 85

旭広告社は本年9月13日で85周年を迎えました。多くのお客様と協力会社、そして先輩方のお陰で、横浜関内の地で存続し、営業することができております。ありがとうございます。

◆電柱広告との出会い

当社は牛田省三氏、三枝阿雄(くまお)氏、祖父である中谷茂の現山梨県都留市の同郷3人で始まりました。当社の創立は昭和13年ですが、その前遡ること10年前の昭和3年饒益社として横浜の地で創業しています。当時は牛田さん中心の会社でした。電柱広告という当時屋外広告として許可されている数少ない媒体を扱う会社だったのだと思います。

牛田省三氏

牛田省三氏

三枝阿雄氏

三枝阿雄氏

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中谷茂氏

電柱広告は、各地で始まっていたのですが、その歴史は1890(明治23)年5月28日に警視庁から初めて許可されて始まりました(詳しくは下記サイトをご覧ください)。

https://www.denchu-ad.org/foundation.html

電柱広告自体はすでに133年という歴史になりますから、約50年後に当社が始まったと言うことになります。当時の電力業界は山梨の方が多く、その縁で当社も仲間入りしたのだと思います。実は私が小さい頃に父に東電広告に連れていかれたことがありましたが、多くの人が甲州弁を話していたのをよく覚えています。

先に紹介しました創業者3人も山梨県都留市の出身です。都留市にはいわゆる「電柱広告の碑」と称される碑が立っていて、電柱広告と縁が深いのです(詳しくは下記サイトをご覧ください)。

https://asahi-ad.co.jp/media/denchu/roots/

大伯母さんから聞いた話では、牛田氏が電柱広告事業を横浜の地で始め、それに三枝氏が加わったようです。私の祖父は、都留にあった料亭の女将の紹介で、三枝氏と知り合い、一緒に仕事をすることになりました。当時祖父は富士急行電鉄を辞めたばかりで、電柱広告事業に関わるようになりました。当初の富士急は身延線と富士吉田線を経営していましたが、国に身延線を接収され、富士吉田線だけになったのです。富士急のオーナーである堀内さんが郡内(大月、富士吉田、都留など小仏峠の手前、甲府盆地は国中と言います)の出身ではないので、地元出身の祖父茂が線路の用地交渉をしたのでした。ちょうど用地交渉が終わったころに富士急を辞め、この電柱広告のビジネスに入ったようです。

昭和13年9月13日に牛田、三枝、中谷の3氏で合資会社旭広告社が設立となりました。当時誰が社長だったのか知りたくて、登記簿を調べたのですが、当時の登記簿は戦争で焼けてしまい存在していませんでした。

その後牛田氏が貿易の仕事で台湾や上海に行った際に病気となり、そのまま不帰の人となったそうです。おそらく戦時中のことではないでしょうか。前名誉会長の三枝幸雄氏(昭和10年生)が小学校の時と言っていましたので、昭和16年から18年と推測されます。その後三枝阿雄と中谷茂の二人三脚での運営となった訳です。戦争などの苦労もありましたが、戦後昭和22年東京電灯の広告のみに絞り電灯広告代理店として再出発しています。

昔電柱広告1

昔電柱広告

昔電柱広告2

昔電柱広告

◆新たなステージへ

昭和47年、株式会社旭広告社広告社創立。横浜市営交通広告の扱いを始め、昭和50年に指定代理店となりました。当社の大きな転換点の一つです。

横浜市営交通との付き合いは、路面電車(いわゆるチンチン電車)が接点でした。路面電車を走らせるには電気が必要ですが、当社はその電柱の柱の広告を扱っていました。地下鉄の発足とともに路面電車が廃線となり、配電用電柱もなくなりました。路面電車用電柱広告の廃止です。その代わりといってはなんですが、横浜市営交通の広告が扱えるようになった訳です。

次の大きな転機は、1989年(昭和64年、平成元年)の横浜博覧会(YES’89)でした。今のみなとみらいが、三菱造船所跡地を中心にその先まで埋め立てられ、埋め立て工事が終了した何もない広い敷地で横浜博覧会が開催されました。数多くのパビリオンがありましたが、4つあった公式パビリオンの内2つ(YACアストロキャンプ、コカ・コーラ隕石館)を当社が受け持つことになりました。それがきっかけとなり、イベント事業など電柱・屋外広告・交通広告以外の広告を扱うようになったのです。

その後は時代の要請と幸せなことに多くのお客様に支えられ、ホームページ制作、インターネット広告などを扱うようになり現在に至ります。これからも時代の変化とお客様の要請に合わせて、会社を進化させてまいりますので、ご指導のほどよろしくお願い申し上げます。