今年の9月1日は、関東大震災からちょうど100周年にあたり、各地で防災に関する展示会などが盛んに行われました。関東大震災は、1923年(大正12年)9月11日11時58分32秒に起こったマグニチュード7.9(阪神淡路大震災M7.3、東日本大震災M9.0)の巨大地震でした。死者・行方不明者が約105,000人(阪神淡路同約5,500人、東日本大震災同約18,000人)と言われているので、その大きさが分かろうかと思います。被災した家屋などを考えると経済に与えた影響は国家予算の何倍の規模と言われています。
特に横浜が受けた被害は甚大で、表2を見ていただいてお分かりの通り、被災した世帯、人口の比率は90%を超えています。主力の生糸貿易は、火災で商品がかなり焼失してしまいました。生糸の貿易港として最大の港として栄えていた横浜港も、これを境に神戸港からの輸出が増え、横浜の地盤沈下が起こる事態となりました(表3)。
■有吉市長の誕生と3大方針
そこで横浜経済人が、横浜復興を目的に白羽の矢を立てたのが、当時朝鮮総督府政務総監をしていた内務官僚の有吉忠一氏でした。この時すでに、千葉県知事、宮崎県知事、神奈川県知事、兵庫県知事などを歴任された超エリート官僚でした。
1925年に第10代の横浜市長に就任し、「大横浜建設」をスローガンに、下記の3大方針を打ち立てました。
①横浜港の拡張
②臨海工業地帯の建設
③市域拡張
それまで生糸貿易に大きく依存していた横浜市の体質から本格的な工業化へと舵を切ったのです。
この事業は2年後の1927年(昭和2年)に「大横浜建設の年」として、
①横浜港の拡張
横浜港の外防波堤建設工事着工
②臨海工業地帯の建設
子安・生麦沖市営埋め立て地(約64万坪)建設
③地域の拡大
横浜市周辺9町村(橘樹郡(たちばなぐん)鶴見町・旭村・大綱村・城郷村(しろさとむら)・保土ケ谷町、都筑郡西谷村(にしやむら)、久良岐郡(くらきぐん)大岡川村(おおおかがわむら)・屏風浦村(びょうぶがうらむら)・日下村(ひしたむら))の合併を行った。これにともない、市域面積は3.6倍、人口は50万人を超えました。合併の約半年後、横浜市は区制を施行し、鶴見・神奈川・中・保土ケ谷・磯子の5区が新たに誕生したのです。(図1の太線で囲われたところ)。
震災後この3大方針によって、横浜は大きく発展していったのです。
参考:横浜開港資料館
参考:横浜開港資料館
■(こぼれ話)まちづくり一丁目一番地「緑の軸線構想」
この震災復興事業の一つとしてでできたのが、震災の瓦礫でつくった山下公園です。この山下公園が「緑の軸線構想」の起点となり、関内エリアのまちづくりに大いに関わってきています。
参考文献
・関東大震災がつくった東京 武村雅之著
・横浜の関東大震災 今井清一著
・横浜開港資料館 館報「開港のひろば」バックナンバー